メトロより愛をこめて

散れば咲き散れば咲きして百日紅

なぜ文を書くわたしでいたいのか

 ブログなんて久しぶりです。中学生とか、小学生とか、そんなときに熱心に書いていたな。

それからは専らTwitterだったから、こういう文体に慣れなくてこわごわしています。

 

 わたしは絵を描く人だった。なんで描いてたかというと上手かったから。めちゃめちゃ上手いわけではないよ、練習なんかしたことないのに、クラスでいちばん上手い女の子でいつづけたから(学年でいちばん、っていうとそんなことはないくらいの実力)。

 それで褒められたから。努力はもともと好きではなくて、努力せずとも褒められること=自分を肯定されること だと思ってた。というか、いまも若干思っている。努力した段階でそれは自分+αの付加価値で、純粋な「わたし自身の価値」ではないからね。努力する才能とか、継続力とか、そういう話はしていなくて。

 褒められるとか、ほかの人より優れているとか、そういうことしか手をつけたくなかった。プライドが高いから。実力が伴わないのにプライドだけ高い人なんだよね。めちゃめちゃ嫌い、そういう人。わたしだけど。

  「そういうこと」って他になにかっていうと、勉強かもしれない。そんなには得意じゃないんだけど、国語だけはすごく得意だった。そこそこいい大学の国文科にいて、塾でバイトしても、まだわたしより国語得意な人見たことない。わたしの世界が狭いのもあると思う、名門の高校を出ている友人達、哀れと笑ってくれ。

 それで、国語、「なにもしなくても褒められる」から、おまけで英語と世界史もやった感じ。

 ギターも弾くし歌も歌うけど、ギターは正直下手くそ。歌は下手じゃないけど上手くない。

 運動なんて以ての外。プライドが許さないから、本気にもならない。数学もそう。本気にならないと単位が怪しかったからお友達と泣きながら本気で勉強したけど、てんでダメですね。根本的にセンスが悪いのかもしれないね。

 それで、「絵を描く」ことと、「頭が悪くない」ことで己を支えてきたんだけど、自分自身の価値は殆どゼロに近いと思ってた。

 わたしは人間の価値の全ては容姿だと思っていたから。

 道端で美しくない人を見て、「醜いな、生きてる価値がないわ」なんて思わないです。誤解されがちなんだけど、これって専らわたしに限った話。

正直、わたしは生まれつき醜い容姿をしている。

昔の写真なんか見ると目はかなり小さい。一重だし、鼻は団子鼻。唇は厚くて、髪は黒々としていてべたっと濡れているような下品な艶がある。いわゆる天パ。背が高い上に太っていて、ニキビだらけの脂ぎった顔をその汚い髪で隠してた。通りすがりに「ブス」「デブ」って言われたり、同級生の男の子に容姿について馬鹿にされたり、親戚に「器量が悪くても大丈夫よ」って言われたり(意味がわからないと思ってたのかもしれないけど)、「もう少し可愛かったら」と好きだった人に振られたり。それで怖くなって、鏡にも写らず写真にも写らずの幼年期を過ごした。プライドが高いから、「美しくない」自分を許せなかったのね。運動とか、数学みたいに逃げられないから、余計に。

 

 大学受験のとき、「受験勉強だけしてるのもつまんないな」と思って、せっかくだからとダイエットも始めたんだよね。162cmあったけど、76kgあった。それで痩せて(いま52~54kgくらいをウロウロしてるかな)、何故か髪質も変わって…美容楽しいなって思えるようになってきて。

大学入ってからは殆ど美容のことしか考えてない。その割には偏差値40くらいの容姿だけど。

 それで、去年の秋、失恋したんだよね。振られて。付き合ってた人に。お互い溺れるみたいな恋愛だった。また今度別の記事に書きたいけど、戻りたいような戻りたくないような、多分もうしないくらいの大恋愛。あの、なんというか、谷崎みたいな、愛に生きた!って感じ。

  もうその人のことしか考えてなくて。いま考えると、そんな大した男じゃないんだけど。恋は盲目ってほんとうのことなんだ……!って思ったよ。んで、失恋して、気づいた。あれ?わたしなんにもなくね?って思ったんだよね。

 

 恋だの愛だのにかまけていたから、絵も描かないし、頭も良くないし。アイデンティティがほぼゼロ。自分のこと好きになるのって、「他人よりこういうところが優れた自分」が必要じゃないですか。わたしだけかな。優れてなくていいけど、独自性で十分。

 独自性もなんもないのよ。びっくりしたね。美容に心血注いでたから、それが残ったくらい。その元恋人が美しい顔をしていたから、釣り合いたくてますます頑張ってたんだよ、だから結局、美容もそのくだらない(とみんなに言われる)男のため。ほんとうに空っぽな女で辟易した。

  辛い恋愛で、自分のことがどんどん嫌いになるような恋愛だった。それで、別れちゃってから、「昔のわたしは今よりブスだけど、もっと自分のこと好きだったな」って思った。

  絵が描けるって褒めてもらえる自分も、センスを褒めてもらえる自分も、賢いって褒めてもらえる自分も、面白いって褒めてもらえる自分も好きだった。

 ここで重要になるのが、「~って褒めてもらえる」って部分。他人の承認がないと嫌なんです。自信が無いから、自分で「わたし絵上手いな」じゃ自分を認められない。自分の承認onlyには毛ほどの価値もない。

   なにかをする→褒められる→褒められることによって自己承認

 

この全ての段階を踏まないとダメ。これにプライドが高いって要素が足されてみて。超絶面倒な女だから。

 あの前後不覚、へべれけになる恋愛で全部失ったわけです。長所。酔いが覚めて思ったのが、「なんもない自分を愛されてもなんの意味もねえ、『~って褒めてもらえる自分』があるわたしを愛されて、それではじめて『わたしは愛されてる』状態になるんじゃないの?」ってこと。愛されることは全てではなく、自己承認の一助でしかないのでは?ってこと。

 

 しばらく愛されることが全てと思ってたけど、「絵が描ける」「賢い」自己承認と引き換えに「愛される」を手に入れただけにすぎないんですよね。それで「愛される」がなくなった現在、見事にゼロ。引き換えしないといけないような恋愛で満たされるわたしなんてハリボテでしかねえよ。ファック。

 正直に言っていいですか。全部ほしい。当たり前ですよね、全部ほしいよ。愛されたいし、自分のこと好きでいたいし。

そのためには絵もまた描きはじめたい。美容も続けて、本も読みたい。あとなにしようか、そういえば国語だけは得意だな、作文も褒められてたな、じゃあ。ってことで、書こうと思った。細々とでよくて、身内に読んでもらうだけで十分なんだけど。

 

なぜ文を書きたいのか、がタイトルじゃなくて、なぜ文を書くわたしでいたいのか、がタイトルなのはこんな理由。

 長々と書いちゃったけど、次から簡潔にするから読んで。お願いします。隙あらば自分語りというか、自分のパーソナルな部分を可視化して整理というか、くだらない自慰に付き合ってくださるのならばよろしく。